2012年3月14日水曜日

『救援』第515号3月10日 「被曝地の闘い」


被曝地の闘い~福島県郡山市からの報告
ふくしま集団疎開裁判の会 井上利男

目に見えない放射能
天地を揺るがす激しい揺れ、衝撃の津波映像、原発事故、あの311日から早くも1年。「天災は忘れたころにやってくる」という。巨大な自然災害、東北沖大地震と大津波の残した(目に見える)傷は1年後のいまもなお癒えないとはいえ、やがて長い時の流れが癒してくれるだろう。だが、東京電力を含む、この国の権力機構が引き起こした原発災害の(目に見えない)傷がいつか癒える時がくるのだろうか?
福島県中通りの被曝都市のひとつ、郡山市のJR駅に降り立ってみるとよい。夕刻なら、駅前広場をファンタジックに演出するイルミネーションが旅客を迎えてくれるだろう。ショッピングモールをぶらついてみると、若い女性たちや親子連れが食事や買物を楽しんでいるのを見かけるだろう。
放射能の厄介な点をあげれば、「目に見えない」物理的事実、「見させない」政治的策謀、「見たくない」心理的防衛機構。県民の多くが「見ザル、聞かザル、言わザル」となるような、分断化された社会状況の福島県内で、ある女性はフェースブックに次のように書いた。「たとえば、ふくしまに『とどまれ』と言われると『人の命をなんだと思ってるんだ!』と言いたくなり、『避難しろ』と言われると『そう簡単に言うな!こっちにも事情があるんだ!』と言いたくなってしまうことたとえば、明日にはこの家を遠く離れるかもしれない、と毎晩考えることたとえば、それでも明日もこの家で暮らせますように、と毎晩祈ること毎日、怒ること毎日、祈ること」(全文『千里の道』サイト

目に見えない戒厳令
福島第一原発が次々と爆発し、膨大な量の放射性プルームが通過したいたあの頃、多くの県民たちは情報を与えられないまま、一家総出で生活用水確保のために給水所の長い列に並んでいた。新学期になると小中学校が再開され、419日、文部科学省が一般人の法定年間被曝許容基準1ミリシーベルトを【無視】して、学校施設利用のさいの年間被曝20ミリシーベルト容認を福島県教育委員会に通知した。これは、部外者の立ち入りが禁止される「放射線管理区域」基準の約4倍にあたる。その後、文科省は度重なる親たちや子どもたち自身の抗議行動に押されて「年間被曝1ミリシーベルトを目指す」と約束したが、通知そのものは撤回していない。教育を司る官庁みずからが超法規的行政を恥じないこの国は、法治国家ではなく、人治国家であることを世界に露呈したのである。
福島県放射線健康リスク管理アドバイザーに就任した長崎大学の山下俊一教授は100ミリシーベルト安全論を振りまき、「皆さんは日本国民です。日本国民は政府の方針に従う義務があります」と講演するしまつ。任命者の佐藤雄平福島県知事は農業立県・福島県産食品の安全・安心キャンペーンにいそしみ、福島市で公演したアジアン・ビューティ12人に囲まれて、「(メディアに連日登場する)私は、世界一有名な首長かもしれません」(日刊ゲンダイ12年11月1日)と浮かれる。
原発禍のもとにあるこの国の危機管理の主眼は、国民の命・財産を守ることにはなく、社会的パニックを防止し、既存体制を防護することにある。そして、佐藤知事の懸念は、県民の健康被害にはなく、人口流出による県勢の衰退にある。ここに一枚の写真がある(毎日新聞撮影)。役場ごと郡山市に避難していた川内村の村長が3月からの帰村を宣言し、小学校の再開のために放射線防護服・マスク姿の女性たちが除染している光景である。このような異様な環境のなかへ子どもたちを呼び戻そうというのである。

暗闇のなかの希望
昨年6月、郡山市内の小中学生14名が「年間被曝1ミリシーベルト以下の安全な場所での教育の実施する」仮処分を申し立てたが、12月になって、福島地裁郡山支部は「100ミリシーベルト未満の低線量被曝の晩発性障害の発生確率について実証的な裏付けがない」などと理由付けして、この申立を却下した。裁判所みずからが法の精神をかなぐり捨て、政・官・産・学・メディアのペンタゴン複合体「原発ムラ」の番犬に成り下がったのである。
昨年春、原子力資料情報室のアメリカ人スタッフが帰国するさい、「日本の市民運動の弱点は、言葉の壁もあって、海外との連携が欠如していることです」というメッセージを残した。環境活動家、アイリーン・スミスさんは『水俣と福島に共通する10の手口』を「1.誰も責任を取らない/縦割り組織を利用する。2.被害者や世論を混乱させ、『賛否両論』に持ち込む。3.被害者同士を対立させる。4.データを取らない/証拠を残さない。5.ひたすら時間稼ぎをする。6.被害を過小評価するような調査をする。7.被害者を疲弊させ、あきらめさせる。8.認定制度を作り、被害者数を絞り込む。9.海外に情報を発信しない。10.御用学者を呼び、国際会議を開く」と数えあげ、海外発信の重要性を示唆している。
徳川幕府の鎖国政策や近隣国の金正雲体制に引けを取らない「民主主義国家」日本の手口に対抗して、被曝地域にいる子どもたちの命と健康を守るために、ふくしま集団疎開裁判の会は世界に向けて情報とメッセージを発信し、国際的な支持と支援を要請することの重要性に気づき、226日、東京で「世界市民法廷」を開催した。「わたしたちは『原発ムラを包囲する世界市民』となり…子どもたちの命と健康を守るための壮大な闘いの第一歩」(開廷挨拶より)を踏まなければならない。
福島地裁郡山支部における現実の裁判の経緯をモデルとした法廷ドラマと仮想の陪審団討議が舞台上で進行し、第二部のパネル・ディスカッションと併せて、同時通訳インターネット映像が世界に配信された。東京に続いて、世界市民法廷は317日に福島県郡山市でも開催され、これも世界に映像配信される予定である。
目に見えない放射能に汚染されただけでなく、安全・安心を装った一種の戒厳令体制に覆われた被曝地の未来は暗い。汚染地域の住民を放置する日本の未来も暗い。この暗闇のなか、わたしたちは新たな道を切り拓かなくてはならない。「疑ってはいけない。思慮深く、献身的な市民のグループが世界を変えられるということを。かつて世界を変えたものは、実際それしかなかったのだから」――マーガレット・ミード(人類学者)
【追記】関連情報ネット検索キーワード:「ふくしま集団疎開裁判」「世界市民法廷」「原子力発電 原爆の子」


弾圧に備える必携カード
救援連絡センター は、1969年3月29日に発足しました。当時はベトナム戦争・日米安保条約に反対する闘いや、全共闘運動、さまざまな市民運動などが高揚していました。
これらの闘いに対して逮捕はもちろんのこと、機動隊の暴力などによる弾圧が加えられました。逮捕者と負傷者の救援のために、地域の救援会や個別の事件について救援する組織が多数作られました。そして各種の救援組織を援助し、それら相互間の連絡のために発足したのが救援連絡センターです。
救援連絡センターには2つの原則があります。
一、国家権力による、ただ一人の人民に対する基本的人権の侵害をも、全人民への弾圧であると見なす。
一、国家権力による弾圧に対しては、犠牲者の思想的信条、政治的見解のいかんを問わず、これを救援する。
この2大原則に立ちながら今日にいたるまで救援活動を続けてきました。

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