2016年3月7日月曜日

☢#フクシマ5周年☢【海外論調】ロシア・ツデー:菅直人・元首相「日本は存続の危機にひんしていた」


「日本は存続の危機にひんしていた」
フクシマ核惨事で東京は避難の瀬戸際に…菅直人・元首相

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2016210日、福島県大熊町の福島第一核発電所。© Toru Hanai / Reuters
2011年のフクシマ核メルトダウンのあと、政府の不手際、および東京電力経営陣の未熟な対応のため、日本の命運は「紙一重の瀬戸際」に追いこまれ、すんでのことで5000万人の避難を余儀なくされるところだった。

英紙デイリー・テレグラフ記事によれば、日本の元総理大臣、菅直人氏は悲劇の5周年を前にして、2011年に地震と津波が福島第一核発電所の3基の反応炉をメルトダウンに追いこんだとき、日本政府の最上層部における業務と方針決定に全般的な混乱が蔓延していたと同紙に語った。


発電所の運営会社、東京電力が過酷事故の全体像について「明確な情報」を明かさず、いかなる決定を下すにしても、ほぼ不可能だった。菅氏はテレグラフに次のように語った――

「ほんの少ししか情報は入ってきませんでした。明確な判断を下すのは、非常に困難でした。わたしは自分が核の専門家であるというつもりはありませんが、大学で物理を学びました」

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時間を追うごとにフクシマの状況は悪化していった。マグニチュード9.0の地震が引き起こした、波高13メートルの巨大津波が、高さ10メートルの防波堤を乗り越え、6基の沸騰水型反応炉の冷却系を制御するコントロールルームの電源を破壊した。

菅氏は、フクシマの冷却系が機能を停止したという知らせを受けたとき、脊髄に「戦慄」が走ったと打ち明けた。

「聞かされていた情報は非常に乏しかったですが、それにもとづいても、これはチェルノブイリよりも苛酷な事故になる現実的な可能性があるとわたしにはわかっていました。チェルノブイリは凄まじい事故でしたが、反応炉1基だけのものでした。こちらには、6基ありました」

労働者たちが、反応炉の冷却系に電力を供給し、彼らのコントロールルームの電力を回復しようと苦闘していたさなか、水素と空気の化学反応による爆発が次々と起こり、放射能が放出されてしまった。最初の爆発は312日に1号機で起こり、314日の3号機爆発がそれにつづいた。最後の爆発は315日に4号機で勃発した。


管・元首相は、311日から15日にかけて放射能汚染が地理的に拡散し、メルトダウンの動きがつづき、6基の反応炉のすべてに及んでいたなら、間違いなく東京も被災していただろうという。

ある時点で、状況が沸点に達し、菅氏が率いる内閣は、戒厳令の布告に加えて、首都・東京およびその周辺地域の避難を考慮した。菅氏はこういう――

「今後も日本が存続しうるか否か、危機にひんしていました。あの規模の事態、5000万人の避難…それは、大戦争の敗北に匹敵していたはずです」


メルトダウンがフクシマの反応炉6基すべてに波及する全面的な惨事は、海水が反応炉に注入されて回避することができた。

菅氏は危機対応を問われて、地位を失い、緊急作業員を惑わせ、情報を留め置き、「フクシマ50〔フィフティ〕」を原発に残留させると決定したことで国会事故調に批判された。フクシマ50とは、他の労働者ら750人が避難したあと、現場に残った職員たちのグループである。菅氏はテレグラフに次のように語った――

「わたしは東京電力本社に乗り込み、職員たちが退去してはならないと求めました。そのため、わたしは今日になるまで批判されていますが、それでも今になっても、わたしが正しいことをしたのだ、あれは危機の決定的な瞬間だったと信じております。

「わたしたちは、みずからの命をかけた人たちのおかげで、(原発周辺の)250キロ圏内避難区域の設定を“紙一重の瀬戸際”でかろうじて回避できたにすぎません。次に同じようなことがあれば、あれほどうまくいかないことでしょう」



菅氏は、苦しい試練のなかでも、後に免職になったが、当時の原子力安全・保安院の院長、寺坂信昭氏の言動に「とてつもないショック」を受けたといった。彼はこういう――

「わたしたちは彼に質問しましたが、彼は明解に応答できませんでした。核問題について、なにか知っているのか?――と、聞いてみました。寺坂氏は『いいえ、わたしの専攻は経済学でした』というのです」

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菅氏は、「311日以前にも、多数の事故を引き起こしていた」ので、東京電力に危機の責任があると糾弾しつづけた。経営陣は、施設が津波に対して無防備であることを20096月に知っており、「リスクに気づきながら、なんの予防策も講じていませんでした」。

事故後5年たっても、福島第一核発電所は、周辺の生態系と人間に脅威をもたらしつづけている。菅氏もこれを認めており、こういう――

「東京電力がなにを言おうとも、2号機と3号機には、いまだに放射能を抱えた燃料棒が存在し、連日、少量の(放射能汚染)水が漏出しています」

菅氏は、日本は「じゅうぶんな教訓を学んでおらず」、さらなる災害のリスクに「目を閉ざしています」といって、安倍晋三首相が核発電所のいくつかを再稼働しつづけていることに遺憾の意を表明した。元首相はいう――

「防波堤をかさ上げするなど、津波に対する追加的な防護策が講じられていますが、わたしはこれでじゅうぶんだとは思いません。わが国は、被災する住民がいる地域に核発電所を建造してはならなかったのです。日本は津波の後、何年も原子力なしにやってきましたので、できるはずです」


菅氏は、2011年災害が自分を反原子力活動家に変えたと認めて、こういった――

「わたしは自分の見解を180度転換しました。リスクと利便性のバランスに着目しなければなりません。反応炉1基のメルトダウンが施設全体を破壊しますし、可能性が小さくても、あまりにもリスクが大きいのです」

菅氏は同時に、放射能影響予測ネットワークシステム[SPEEDI]のデータを公表しなかったことを「申しわけなく思う」と明言した。これは施設周辺の正確な放射能予測データであり、何千人もの地元住民を被曝から守ることができたはずだと彼は述べた。

フクシマ核惨事は放射線急性疾患による死傷者を出さなかったものの、メルトダウンはほぼ400,000人の人びとに避難を余儀なくさせた。施設周辺20キロ圏内の地域は、いまも避難区域のままである。

【クレジット】

RT International, “’Japan’s existence was at stake’: Fukushima disaster nearly prompted Tokyo evacuation – former PM,” posted on March 6, 2016 at;

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